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東京地方裁判所 昭和62年(ヨ)2279号 決定 1988年8月17日

債権者

安田豊明

右訴訟代理人弁護士

渡邊興安

債務者

葵交通株式会社

右代表者代表取締役

樋口光義

右訴訟代理人弁護士

高井伸夫

末啓一郎

小代順治

高下謹壱

主文

一  本件申請をいずれも却下する。

二  申請費用は債権者の負担とする。

理由

一  当事者の求める裁判

1  申請の趣旨

(一)  債権者が債務者に対して雇用契約上の地位を有することを仮に定める。

(二)  債務者は債権者に対し、昭和六二年六月二一日以降本案判決確定に至るまで、毎月二五日限り月額金三三万一三六二円の割合による金員を仮に支払え。

(三)  申請費用は債務者の負担とする。

2  申請の趣旨に対する答弁

主文同旨

二  当裁判所の判断

1  当事者間に争いのない事実及び審尋の結果によれば、債務者はタクシーによる運送を業とする会社であり、債権者は昭和五三年九月四日債務者に雇用され、同月九日以降タクシー運転手として勤務してきたことが認められる。

2  当事者間に争いのない事実及び本件疎明資料によれば、債務者は、昭和六二年五月一七日債権者に対し同年六月二〇日をもって解雇する旨の意思表示(以下、「本件解雇」という。)をなし、同月二一日以降債権者の就労を拒否していることが認められる。

3  そこで、本件解雇の効力について判断する。

(一)  本件疎明資料によれば、債権者は昭和六二年五月一三日債務者のタクシーに乗務し、午後一一時三〇分頃空車で靖国通りを新宿大ガード東交差点から新宿五丁目交差点方面に向かい、東京都新宿区歌舞伎町一丁目一七番地先路上において赤信号で停車中、一名の客(以下、「本件乗客」という。)が債権者の車両に近付き窓ガラスをノックしたため後部左側ドアを開けたが、本件乗客が車内に上半身を入れながら「大倉山まで」といって乗車を申し込んだのに対し、「道がわからない」と述べ、そのため本件乗客は「じゃあいいよ」といって乗車を断念し同車両を離れたこと(以下、「本件乗車拒否事件」という。)が認められる。

そして、債権者が右のとおり「道がわからない」と述べたことについては、次の各点を総合すると、債権者は大倉山への道順を知っていたにも拘わらず、同所への運行を敬遠する心理から、本件乗客に乗車を断念させる意図で述べたものと推認することができる。

(1) 本件疎明資料によれば、大倉山は、新宿から明治通り、中原街道を経由して達する綱島街道の日吉、綱島の先、新横浜の手前に位置する要所で、これと平行して走る東急東横線の駅名にもなっていること、債務者の主たる営業地域は新宿、杉並、中野、渋谷、世田谷等東京西南部であり、右地域からの右中原街道方面への運送はそれ程珍しいことではなく、現に債権者は債務者が一年半前後の期間のみ保存する運転日報により知り得る限りでも昭和六一年三月五日綱島、同年七月三日新横浜、昭和六二年四月九日日吉にそれぞれ乗客を運送していることが認められ、前記のとおり昭和五三年九月九日以降八年以上にわたり債務者のタクシー運転手として勤務する債権者が大倉山の地名や道順を知らないのは極めて不自然といえること。

(2) 本件疎明資料によれば、債権者は、かねてからその乗務の大半を歌舞伎町を中心に新宿近辺を離れずに行っており、乗客の乗車回数は多いものの走行距離数が短いため営業収入が低いことから債務者にその営業方法を改善するよう再三注意されたに拘わらず債権者はこれを改めずにいたことが認められ、債権者には右新宿周辺での比較的近距離の運送を好む傾向が強かったと認められること。

(3) 本件疎明資料によれば、債権者は本件乗客の「大倉山まで」との乗車申し込みに対し、その方向や道順の概略さえ確かめようともせずに「道がわからない」と述べていることが認められ、債権者には大倉山への道順を知ろうとした形跡が全く窺われないこと。

(4) 債権者は大倉山の地名や道順について、(証拠略)では「とっさに道順が思い出せなかった」とし、また(証拠略)では「とっさに大倉山が思い出せなかった」とする一方、(証拠略)では「行ったことがなく、地名も知らなかった」としており、本件乗車拒否事件の際に大倉山の地名や道順を本来は知っていたものか、全く知らなかったものか、説明が一定していないこと。

なお、債権者は、本件乗車拒否事件の経緯は債権者が先客を降ろし客待ちに入った際、本件乗客が前方で手を上げたため、債権者は車両を進めて客席のドアを開けたが、本件乗客は乗車することなくドアに手をかけたまま頭から上半身を車内に入れて「大倉山を知っているか」と債権者に尋ね、債権者が「場所を知らないんですが、教えてくれますか」と答えると、「知らないんじゃしょうがない」といって立ち去ったというものであり、本件乗客の意思は債権者がもし大倉山を知っていれば乗車しようという程度のものにすぎず、債権者が行く先を知らなかったため乗車の意思表示をするに至らなかったものであって、債権者が本件乗客の乗車の申し込みを拒否したというにはあたらないと主張し、これに沿う債権者提出の疎明資料(債権者作成の各文書)があるが、右疎明資料は、その内容が本件乗車拒否事件を現認、指導した財団法人東京タクシー近代化センターの三名の指導員が現認した客観的事実や債権者及び本件乗客から聴取した内容(<証拠略>)と食い違う上、右債権者提出の疎明資料相互の間にも、債権者が「世田谷の大蔵ですか」と聞き直したという部分が付け加わったり、また「場所を教えてくれますか」といったとする部分があいまいになったり、更には欠落するに至るなどして重要な点で一貫性がなく、これをにわかに措信することができず、右債権者の主張は前提事実を欠くものであって、採用することはできない。

(二)  本件疎明資料によれば、債務者の就業規則には左記のとおりの規定があることが認められる。

第三五条 従業員が左の事項の一に該当する時は、退職又は解雇とする。

一 本人が死亡したとき。

二 本人から退職を願い出たとき。

三  定年に達したとき。

四  休職期間満了迄に復帰しないとき。

五  精神又は身体障害の為就業につけず、その回復の見込みのないとき。

六  懲戒解雇されたとき。

七  已むを得ない業務上の都合のあるとき。

(三) 債務者は債権者の前記(一)の行為は右就業規則第三五条第七号に該当すると主張する。

まず、右第七号は、このように従業員に帰責事由が存する場合も含むものかについて考えるに、同号は債務者側の都合による解雇の定めであるが、従業員に帰責事由がある場合でも、これに起因して債務者に雇用関係を終了させることが已むを得ないといえる業務上の都合が生じる場合はあるものといえ、同条全体の趣旨からすると右第七号が右のような場合を排除しているものとも考えられないから、同号は右のような場合を含むものと解するのが相当である。

そこで、債権者の前記(一)の行為により、債権者と債務者の雇用関係を終了させることが已むを得ないといえる業務上の都合が生じているかについて検討する。

タクシー運転手が正当な理由なく顧客の運送の申し込みを拒否するいわゆる乗車拒否は、道路運送法一五条に定められた一般自動車運送事業者たるタクシー事業者の運送引受義務に反する行為であって、利用者の利便を著しく妨げ、ひいてはタクシー事業の適正な運営を阻害する行為というべきであるが、タクシー事業者は乗務員の乗務を直接に指揮、監督することができないから、右乗車拒否の防止は乗務員に対する指導、教育等を介して行う他ないところ、本件疎明資料によれば、債務者は乗務員服務規律に乗車拒否を含む違法行為の説明や注意事項を掲げ、入社時の教育訓練や毎月一回の明番講習会等でもこれを徹底し、タクシー業務の適性化を図り利用者の利便を確保するための事業を行う財団法人東京タクシー近代化センター等による巡回講習も実施し、更には東京タクシー近代化センターより債務者に乗車拒否等の指導報告書を送付され、明らかに乗車拒否を犯したと認められる者については懲戒解雇または予告解雇とすることなどを定めた違法行為に対する処分基準を作成し、その書面を社内に掲示して右基準を周知させるなど、乗車拒否等の違法行為防止のための指導教育を全乗務員に徹底していたことが認められ、債務者は右指導教育により乗務員に培われる自律性に対する信頼の下にタクシー事業を運営しているものと考えることができる。

そして、右の事実によれば、債権者においても右指導教育により乗車拒否が厳に禁止されるべき行為であることを知悉していたものと推認し得るところ、債権者はそれにも拘わらず前記(一)記載のとおりの乗車拒否行為に及んだものであり、ここにおいて債務者の債権者に対する乗務員としての信頼関係は破壊され、債務者が債権者との契約関係を継続することは債務者のタクシー事業の運営に著しい支障をきたすものということができるから、債権者の右行為は前記就業規則第三五条第七号に該当するものということができる。

(四) 次に、債権者は本件解雇は解雇権の濫用であると主張するが、以下の各点に鑑みれば本件解雇は相当なものというべきであって、右債権者の主張は採用できない。

(1)  前記(一)記載の債権者の行為は明白に乗車拒否行為にあたるものであって、前諸(二)(ママ)に述べた債務者の債権者に対する信頼の破壊の程度は軽いものとはいえず、なお、本件乗客は比較的簡単に乗車を断念している点も右破壊の程度を軽減する要素とはいえない。

(2)  本件疎明資料によれば、債権者は本件乗車拒否事件後帰庫してから債務者の営業係長犬塚俊市に対し、本件乗車拒否事件について、本件乗客に「大倉山知ってますか」と聞かれて「知りません」と答えると、本件乗客は「じゃいいや」といった旨報告し、右犬塚にそれは乗車拒否であるといわれると、「じゃいいやといわれたのが何故乗車拒否だよ」と主張し、その後酒に酔った状態で債務者の点呼場にいた右犬塚に東京タクシー近代化センターに問い合わせた結果を聞きにやってきて同様の主張を繰り返し、更に、昭和六二年五月一七日本件解雇の通告の前に債務者の営業部長前川徳一に本件乗車拒否事件の確認と弁明を求められた時にもやはり同様の主張を繰り返していたことが認められ、債権者には前記(一)の行為に対する反省の色が窺われない。

(3)  本件疎明資料によれば、債権者は昭和六一年四月一八日にも乗車禁止地区営業で東京タクシー近代化センターの指導を受け、債務者に指導報告書が送付されて減給処分を受けていることが認められる。

(4)  前記(二)記載のとおり、債務者においては、東京タクシー近代化センターより乗車拒否等の指導報告書が債務者に送付され、明らかに乗車拒否等を犯したと認められる者については懲戒解雇または予告解雇とすることが乗務員に明らかにされており、また、本件疎明資料及び審尋の結果によれば、このような事案について債務者は任意退職を勧めたうえでこれに応じなければ解雇する方針を採っており、従前の例ではいずれの者も任意退職に応じたが、債権者はこれに応じなかったために本件解雇がなされたものであることが認められる。

(五) したがって、本件解雇は有効なものということができる。

4 以上のとおりであるから、本件申請は被保全権利についての疎明がないというべきであり、保証を立てさせて右疎明にかえさせることも相当でないから、これをいずれも却下することとし、申請費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判官 川添利賢)

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